恵蘇八幡宮 - 朝倉の不動産なら山下商店へ
甘木朝倉観光情報
見どころ

恵蘇八幡宮

三連水車の里あさくらより東へ1キロほどの所に応神天皇、
斉明天皇、天智天皇を御祭神とする恵蘇八幡宮があります。

恵蘇八幡宮は西暦661年、37代斉明天皇が朝鮮百済救済のため朝倉町大字須川字長安寺の橘の広庭宮に皇居と大本営を遷された際、中大兄皇子(後の天智天皇)に命じ、国家の安泰と皇軍の武運長久を御祈願するため、宇佐神宮の御祭神、応神天皇の御霊を勧請されたのが始まりです。その社は屋根の隙間から天が見えるような粗末な建物で、天降(あもり)八幡と言われていました。その後、天武天皇の御代、西暦673年に斉明、天智天皇の二神霊とも合わせて祭るよう勅命により恵蘇八幡三柱大神と名づけられました。

昔は、朝倉郡、甘木市を含む総社でしたが、現在は朝倉町の総氏神になっています。現在の社殿は、本殿1772年、拝殿1807年に改築されたものです。恵蘇八幡宮背後の山上に斉明天皇の御陵と言い伝えている前方後円墳があります。
このことを日本書紀にはこう書かれています。百済の遺臣は悲しみを訴えて救援してくれるよう心をこめて願いました。そこで斉明天皇は67歳で女帝の御身のもかかわらずわが国の将来を思い直ちに百済救済の御命令を下され、西暦666年暮れ12月4日飛鳥の宮をおたちになり、大阪、瀬戸内海を経て博多にお着きになり、6月14日に大本営たる朝倉町橘の広庭宮に入られました。ところが当時悪い病気がはびこり、長い旅の疲れと御心労のため8月27日御年68歳で崩御なさいました。その後、皇太子中大兄皇子は斉明天皇の御遺骸を、一時朝倉山上に御ひん葬になり百済救援軍を進められました。そして白村江の戦いで我が国が負けた事をお知りになって、奈良県高市郡越知岡村へ御移しになったと記されています。
天智天皇は、斉明天皇の御ひん葬が終わると、直ちに朝倉山の山腹(今の社殿の近く)に木皮のついたままの丸木で、忌み殿をお建てになり1日を1か月に代えて12日間この丸太の小屋で喪に服されました。故に後世、人々が「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになりました。当時の御製「秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ、我が衣手は露に濡れつつ」と、歌われ現在百人一首の筆頭歌に収められています。(以上、恵蘇八幡宮 宮司 上原実二氏より)