見どころ
秋月の腹切岩
三個並ぶ大岩のうち一番北側の岩を
通称「腹切岩」と言っている。
その岩の上は平らで畳3枚が広げられる。
1587年3月、秋月種実(たねざね)の家臣
恵利暢堯(えりのぶたか)が、この岩の上で
切腹し、家族と共に死についたので、こう呼ばれるようになった。
1587年、九州征覇を目指す秀吉軍は中国地方を進み、
秋月種実は敵情視察のため、家臣の恵利暢堯を
広島へ派遣した。
秀吉軍の優れた装備と大軍を見た恵利暢堯は、
秀吉軍に勝てる見込無しと、秋月に戻り報告。
和睦を進言したが、種実はこれを受け入れず、
恵利暢堯は主家のために潔く諫死した。
(現地案内板より抜粋)
場所は上のグーグルマップを参照下さい。
中央の殉節碑は昭和11年に暢堯ゆかりの人々によって
建てられたもので、近くにある鳴渡観音は後年黒田長興の
入国にあたり、長興が暢堯の忠節に感じて
建立したものといわれています。
結局、秋月種実は秀吉に茶器を献上して降伏。
(秀吉の秋月攻めは、この茶器目当てだったとも言われる)
よって日向の国(いまの宮崎県高鍋町)に移封されたが、
江戸時代から幕末明治まで藩を治めました。
18世紀半ば、この日向高鍋藩6代主秋月種美の
次男として生まれ、後に米沢藩主となった人が、
「成せばなる成さねばならぬ何事も成らぬは人の成さぬなりけり」
の名句を残し、改革のリーダーとして世界的にも
有名な上杉鷹山(ようざん)です。